報恩講に何を 〜御正忌の章(1)
	「抑、この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、聖人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり」 
	(大意) 
	    「親鸞聖人のご命日にあたり、志を持って報恩講に参詣し、御恩報謝をさせていただこうと、聖人の御影前にお参りしている人の中に、信心獲得した人と、まだ信心獲得していない人がある。これ以上の大事はない」 
	  
	 仏法を聞いている人に二通りあると、明確に教えておられます。信心獲得した人と、そうでない人です。 
	     信心獲得とは、どういうことでしょうか。やはり、『御文章』にお尋ねしてみます。 
	「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり」(五帖目五通) 
	 お釈迦さまは仰有いました。大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、そこにガンジス川の砂の数ほどの仏方が現れて、仏教を説いておられるのだ、と。 
	     それらすべての仏の本師本仏(師の仏)が、阿弥陀如来です。「最尊第一」とか、「諸仏の中の王なり」と経典に説かれていることからも明らかです。 
	 阿弥陀如来は、四十八の本願を建てられました。本願とは、誓願ともいい、約束のお言葉です。 
	     中でも弥陀が、本心を誓われたのが、十八番目の願です。「十八願」といいます。 
	     漢字ばかり三十六字で『大無量寿経』に説かれていますが、簡潔にいいますと、 
	    「十方衆生(すべての人)を、信楽の身にしてみせる」 
	    というお約束です。 
	『御文章』の、 
	    「第十八の願を心得る」 
	    とは、十八願の通りに、「信楽」になったことをいいます。 
	「信楽」の「信」は、「大安心」の心。また「楽」は、「大満足」の心ですから、「信楽」の二字で、大安心、大満足の身にしてみせるというお約束です。 
	十八願とは、 
	    「苦しみの根元である無明の闇を破り、絶対の幸福にしてみせる」 
	    という意味です。このお約束通りの身に救われたことを、「信心獲得」(獲信)とか、「信心決定」といいます。 
	「信心獲得した人と、していない人がある」とは、阿弥陀如来に救われて、絶対の幸福にすでになった人もあれば、弥陀の本願にいまだ救われていない人もある、という仰せです。 
	 皆さんは、どちらでしょう。すでに救われている方ですか。それとも、まだですか。これはとても大事です。 
	     親鸞聖人や蓮如上人は、いまだ救われていない人に、一日も片時も急いで、信心獲得の身になりなさい、と教えておられます。報恩講は、大根やにんじんを煮て食べるのではなく、一人一人が信心獲得するための勝縁なのです。 
	  
	生きる理由がここにある
	 仏法を聞くのは、信心獲得して絶対の幸福の身になるためです。これが人間に生まれ、生きている目的であります。どんなに苦しくても、自殺をせずに、生きねばならない理由なのです。 
	「誰かを殺してみたかった」 
	    という十七歳の犯行で、殺された主婦もありました。自殺者は世界的に増える傾向にあり、日本でも年間三万人を突破しています。これは一日約九十人、交通事故死の三倍以上に上ります。 
	  他人の命も、また自分の命も軽薄な世の中にあって、言葉だけで、 
	    「人間の命は地球よりも重い」 
	    といわれても、理由が分かりません。 
	「なぜ、命は尊いのか」 
	    「なぜ、地球よりも重いのか」 
	    「なぜ、生きるのか」 
	バスジャックを起こしたある少年は、 
	    「存在感が欲しかった」 
	    と言ったそうです。この世に生まれてきたからには、 
	    「何かをするために生まれてきたのではないか」 
	    「誰かに必要とされているのではないか」 
	    とは思っても、「私」一人くらい死んだところで、世界が変わるワケでもなければ、歴史が動くハズもない。 
	「生まれてきた目的とは何か」 
	    「生きている意味があるのか」 
	    「生きてゆく理由はあるのか」 
	     数々の哲学者や思想家も古来、解答を見つけられず、絶望の末に息を引き取ったのでした。 
	 無意味な人生とは思っても、さりとて自殺する勇気もない。何のための生命か分からぬまま、死んだように生きている人が多いのではないでしょうか。 
	 この少年だけではありません。自殺者は、中高年の男性に最も多いのです。 
	 真実の仏法には、「なぜ生きるか」の明確な答えがあります。 
	    「信心獲得することだ」 
	    「信心決定することだ」 
	    「阿弥陀如来の本願に救い摂られて、信楽の身になることだ」 
	    「無明の闇を破って、絶対の幸福になることだ」 
	     親鸞聖人が教えてくださった、いずれも同じ、人生の目的です。だから人間の命は尊く、重いのです。生きる意味があり、自殺してはならない理由も、ここに明らかです。 
	 すべての人が生きる価値を持っているのですから、存在感にあふれているのです。無人島に一人、暮らしていたとしても、この生きる目的には変わりありません。 
	 車やマイホームを求めて必死に働いたけれども、 
	     出世して金儲けすれば、人生の勝利者だと思っていたけれども、 
	     幸せな家庭こそが一番と思いながら、うまくいかなかった……、 
	     何はなくとも健康だと喜んでいたのに……、 
	     この世の幸福に裏切られ、空しさに襲われ、求めてきたものが間違っていたのではないか、と思っている皆さんは、親鸞聖人のみ教えの中にこそ、生きる意味があると知ってください。どれほど喜んでも、喜びすぎることはありません。何億円出しても、仏法によらなければ知り得ない、大切なことです。 
       
	 信心獲得するために生きていることを知らされて、人生が真に輝く。 
     親鸞聖人がおられなければ、この真実は聞けませんでした。広大なご恩を知らされることはなかったでしょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        
	 いまだ獲信していない人にとって、親鸞聖人降誕会・報恩講こそ、生きる目的を果たす、尊い法筵です。仏法を真剣に聞き、信心獲得して、最大の御恩報謝とさせていただきましょう。 	
	  
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