親鸞聖人のご苦労なかりせば……浄土真宗の報恩講・降誕会 |
闇の心が破れた幸せ 〜御正忌の章(2)「その故は信心を決定せずば、今度の報土の往生は不定なり。されば不信の人も速に決定の心を取るべし。人間は不定の境なり、極楽は常住の国なり。されば不定の人間に在らんよりも、常住の極楽を願うべきものなり。されば、当流には信心の方をもって先とせられたる、その故をよく知らずは徒事なり。急ぎて安心決定して、浄土の往生を願うべきなり」 (大意) 阿弥陀如来の本願の通りに、信楽の身になることが、この世に生を受けた目的です。 明かりが無い、と書く「無明」とは、暗い心です。意味を強めてさらに、「闇」といわれます。 「暗い」とは、どんな時に使う言葉でしょうか。 「無明の闇」は、「後生暗い心」をいいます。「後生」とは死んだ後ですから、死ねばどうなるのかが分からない心です。 生まれてきたからには、一度は死なねばなりません。死ねばどうなるか、ハッキリ答えられる人があるでしょうか。老後の心配まではしても、その先の死を考える人がありません。 しかし、 それに比して、どんなに若くても、今日にも尽きるかもしれぬ無常の命を持ちながら、確実な未来である死後を考えないとは、矛盾してはいないでしょうか。 行き先が分からないと、現在から安心できません。 「後生暗い心」は、「後生不安な心」ともいわれます。暗い未来を生きるのは、真っ暗がりを目隠しして走るようなもので、心から安心して生きられないではありませんか。壁に激突するかもしれません。それが、死です。 川面に屋形船を浮かべてどんちゃん騒ぎをしようにも、下流には、岩があるやら滝があるやら分からなかったら、楽しめないでしょう。 後生暗い心は、現在が暗い心なのです。
弥陀の本願力に救い摂られ「信心を決定せずば、今度の報土の往生は不定なり。されば不信の人も速に決定の心を取るべし」 「報土の往生」とは、一息切れれば阿弥陀如来の浄土へ往って、弥陀同体の仏に生まれることです。それがハッキリしないのは、信心決定していないからだと、「御正忌の章」には仰有っています。 弥陀の本願に救い摂られ、信心決定の身になれば、いつ死んでも、浄土往生、間違いない身となります。これを、蓮如上人は、 五帖目十通の「聖人一流の章」には、 親鸞聖人は、『御臨末の御書』に、 九歳で比叡山に出家なされてより二十年、天台法華の修行では、真っ暗な心が解決できずに聖人は苦しまれました。 ところが、浄土真宗には、こんな人が多いのも事実です。 では、なぜ報恩講を勤めるのでしょうか。私たちのために、大変なご苦労をなさったからです。 「ご自身のためのご苦労」と、「私たちのためのご苦労」を、たとえてみましょう。
オーイ、末代の人々よ 夏の盛りに富士登山をした一行があった。登ってゆくうちに、暑さで汗が噴き出て、のどがカラカラに渇く。持参した水筒の水も底をつき、やがて、 ところが一行の中に、元気のいい人がいて、 やがて精魂尽き果て、とうとうその人もバッタリ倒れた。ところが、倒れたその場に、岩の間から冷たい清水が、こんこんと湧き出ているではないか。男は泉に顔を突っ込んで、ガブガブと飲んだ。 それを聞いた人たちも立ち上がり、清水のある所まで頑張ろうとする。そしてたどり着き、ガブガブ飲んだ人は、やはり後続の連れに、 「笠上げて およそ八百年前に親鸞聖人は、この山登りをされました。どうすれば、どうすればと求められるうちに、弥陀の本願の清水を飲まれたのです。信心決定なされた二十九歳の御時でした。 そのお声に約五百年前、蓮如上人が立ち上がられ、山を登って清水を飲まれました。そして同様に、 これら善知識方の教導によって、私たちは今日、仏法を聞けるのです。親鸞聖人が弥陀の本願の清水を飲まれるまでは、ご自身のためのご苦労でした。清水を飲まれてから叫ばれたのは、ひとえに私たちのためです。 三十一歳で公然と、肉食妻帯されたのは、どんな人をも助ける弥陀の本願を、私たちに示されるためでした。そのために、「破戒坊主」「堕落坊主」といった悪口雑言を甘んじて受けておられます。 権力者の横暴により、京都から越後(今の新潟県)へ流刑に遭われたのは、三十五歳の御時です。初めの判決は死刑でしたが、関白・九条兼実公の計らいにより、流刑となったのです。「阿弥陀如来だけを信じよ。私たちを救いたもう仏は、阿弥陀仏しかおられないのだから」八百年前の封建時代にこう言えば、神信心をしている権力者が、怒らぬはずがありません。死刑も流刑も覚悟で、全人類の救われる道である「一向専念無量寿仏」を明らかにされたのです。 雪をしとねに休まれて、日野左衛門を済度され、弁円の剣の下をくぐられたのも、私たちのためのご苦労です。 日蓮が現れた関東の動揺を案じられ、邪義を唱えた長子・善鸞を勘当されてまで、弥陀の本願真実を伝えてくださいました。 仏法者にとって、命を懸けて守らねばならないものは、天下の掟でもなければ、世間体でもありません。ましてや名誉や財産でもない。 獲信後の聖人は、布教に全生命を懸けた生涯を送られました。知れば知るほど、そのお姿に感泣し、大恩に報いようと思って当然です。 誰かに喜んでもらいたい時は、その人の望むことをしなければなりません。たとえば酒を一滴も飲まない人へ、お歳暮に一升瓶の詰め合わせを贈っても、喜ばれないでしょう。 親鸞聖人のご恩に報い、聖人に喜んでいただくにはどうすればよいでしょうか。無常の世の幸せにしがみついて、仏法をおろそかにしている日常を反省し、仏法を聞いて、信心決定の身にならねばなりません。 「弥陀の本願、まことだったー」と聞き抜いた時、信心決定し、絶対の幸福に救われる驚天動地の体験をします。同時に、死ねば極楽往生間違いなしとなるのです。 「急ぎて安心決定して、浄土の往生を願うべきなり」
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親鸞会の報恩講・降誕会 |