親鸞聖人のご苦労なかりせば……浄土真宗の報恩講・降誕会 |
念仏称えて助かるのか 〜御正忌の章(3)「それ、人間に流布して、皆人の心得たる通は、何の分別もなく、口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき次第なり。他力の信心を取るというも別の事にはあらず。『南無阿弥陀仏』の六の字の意を、よく知りたるをもって信心決定すとはいうなり」 (大意) 阿弥陀如来の本願に救い摂られ、往生極楽を果たすにはどうすればよいか。 ところが、 「すべての人を、絶対の幸福に助ける」 ちょうど、肉体の病苦をいやし、健康の喜びを与えてくれる良薬にたとえられます。阿弥陀如来はすでに、十劫という昔に、薬の調合を終えられました。 せっかく完成された薬も、しかし、飲む人がなければ甲斐がありません。私たちが受け取らねば、名号六字は画餅に等しくなってしまいます。十方衆生に与えるために、阿弥陀如来がつくられたのですから。 弥陀の本願を聞き開き、名号を受領したことを、「仏凡一体」といいます。「仏心と凡心が一体になる」という意味です。すべての人の苦悩を抜き、無上の安楽を与えてやりたいという仏心が、南無阿弥陀仏の名号となったのです。それが私たち凡夫の心と一体になるのです。 「一体」とは、一つになって離れられないものをいいます。炭に火がついたように、どこからが炭でどこからが火か、分けられません。 大慈悲の仏心は、火のようなあたたかい心です。凡夫の心は無慈悲ですから、黒くて冷たい炭にたとえられます。炭に火がついて一つになったのを、「仏凡一体」というのです。 さらに六字が、声となって称えられた時は、 親鸞聖人の教え・浄土真宗は、「信心正因」といわれます。弥陀如来のお手元にある名号では、いまだ私たちは救われていませんから、「名号正因」とはいわれません。ごちそうができていても、食べねばお腹は膨れないのと同じで、ごちそうは「名号」であり、満腹が「信心」です。 名号・信心・念仏はいずれも、体は南無阿弥陀仏です。しかし、呼び名が異なるのです。 隣にどんな美人がいても、結婚するまでは赤の他人の「娘」です。縁あって私と結婚すれば、「嫁」となります。子供ができると、「母」です。娘も嫁も母も、呼び名こそ変われ、同一人物です。名号・信心・念仏も、そのような関係にたとえられます。 「阿弥陀仏はお慈悲な仏さまじゃから、念仏称えたら助かる」という言い分は、「名号」が完成しているから、「念仏」称えるだけでいい、という誤解です。娘が嫁を通り越して、母になってしまうということで、世間の評判もこりゃあ、ちと具合が悪い。 降誕会や報恩講の佳き日には、親鸞聖人の教えを真剣に聞き、信心決定をもって、最高のご恩返しとさせていただきたいものです。
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